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自己紹介
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私がバスーンと出会ったのは、都立新宿高校の管弦楽部に入部した時であった。中学校のブラバンでクラリネット・トロンボーン・チューバ・打楽器をやって、クラリネットは楽器を持っていたからクラリネットで入団を希望したのだが、私が入団をした時期が多少遅かったため先客がいた。『どうしようかなぁ…』と思っていたら、たまたまOBでワセオケにいたI先輩がワセオケで使わなくなったボロボロのバスーンをたったの1万円で譲り受け、これを管弦楽部に寄付してくれたばかりだったことがわかった(楽器メーカーは、イタリアの "オルジー 「ORSI」" だったと思う)。そして別の先輩(自らはバソンを吹くS氏)の勧めで、ここに都立新宿高校現役第一号バスーン奏者が誕生したのであった。
その後、S氏の紹介で我が師匠、元東フィル首席奏者の井料 和彦先生のレッスンを開始した。ひと月に一回行くのが精いっぱいだった。先生の指導は、スケール教則本をベースとした地味なものであったが、この徹底的なレッスンが今の自分に役立っているのは言うまでもない。その時やっているオケのパート譜も見て下さったが、基本的に自分の声で歌えなければ、楽器でも演奏できないというポリシーに則っていたので、しばしば楽器を置いて歌わせられたものである。以来、先生とは40年以上のお付き合いとなる。
さて、私のバスーンでのオケのデビュー曲は、ベートーヴェンの『コリオラン』序曲とシューベルトの『未完成』交響曲であり、高校1年生の秋(9月)の学園祭のステージであった。コリオランは最後に最低音のGを十数小節伸ばすという初心者にとっては地獄のような部分があり、当時のボロボロ楽器で相当苦労した覚えがある。メジャー・デビュー(と言うのだろうか…)は、JMJ(青少年音楽日本連合、通称『ジュネス』)で故朝比奈隆先生の指揮で第九を演奏した時(1981年)のトップ。この時は、初めてオーディションを受けて、いきなり大舞台のトップに抜擢されたので、プレッシャーがきつかった。その後、小林研一郎先生の『ツァラトゥストラはかく語りき』、故山田一雄先生の『幻想交響曲』などをジュネスにて演奏した。その後、JMJコンサートにて今村能先生の指揮でマーラーの交響曲第二番『復活』を演奏したことがきっかけで1987年にザ・シンフォニカの創立メンバーとして入団し、2017年7月まで活動した。
現在は、日本IBM管弦楽団、プロジェクト B オーケストラと愉楽管弦楽団で活動中。
また、ザ・シンフォニカのメンバーで結成したDancing Windsで木管アンサンブルもやっていた。
楽器は、高一の秋に井料先生の紹介で中古のシュライバー(一応プロ・モデルだった)を手に入れる。これには、ヘッケルのボーカル(CD-1)が付いてきたので、とっても重宝した(その楽器は、1989年に次の楽器を購入するまで使用し、その後、出身高校オケに寄付した)。
その後、1989年に購入したシュライバーの5091と、1983年に購入したヘッケルのボーカル(CC-1)を使用してきたが、2010年11月に楽器をYAMAHA YFG-812へ買い替えた。
ボーカルは、剱持さんが開発した「エペ・ボーカル」のSS#2、GG#2を2012年11月、FF#2を2015年6月に購入し使用中。
バスーンは英語、ファゴットは独語、バソンは仏語。英語でファゴットは、スラングでチト変な意味があるので私はバスーンをメインに使用している。 |
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1997年02月初版作成。2023年02月改訂。 |
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今後の出没予定 |
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